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「いえ。阿久津先生はお若く見えますけど、今年で三十五になられます」
山岸社長の言い方からすると、芹沢氏の娘はもっと若いのだろう。確かに先生は二十代だと言っても通りそうなぐらい若く見える。
「この度は『桜の影』をお買い上げいただきありがとうございました。美桜、こちらに来なさい」
芹沢氏の正面に座った阿久津先生は、軽く頭を下げるとすぐに私に向かって言った。それは私がしていた”はしたないこと”を咎めるような口調だった。
「はい」と答えて立ち上がろうとしたのに、芹沢氏の大きな手が私の太ももを掴んだ。
「小柳さんは『みお』という名前なのか。どういう字を書くんだね?」
「美しい」
「美桜。こっちに来いと言っている。早く来なさい」
『美しい桜と書く』といつものように説明しようとしたのに、阿久津先生の大きな声に遮られた。先生がこんな風に声を荒げるなんて初めてで、私は弾かれたように立ち上がった。
分厚い一枚板の座卓の周りを回って先生の隣に座ろうとしたら、先生がすっくと立ち上がった。
「私たちはこれで失礼しますが、お二人はどうぞごゆっくり」
頷いただけか会釈なのかわからない動作の後、先生は目を丸くしている二人を見下ろした。
「先生。いらしたばかりでそんな」
窘めるような山岸社長と先生を見比べて、どうすべきか逡巡する私の手を先生が掴んだ。
「小柳さんはこの後、私と」
「私は美桜の親代わりをしています。彼女はまだ学生なので連れ帰ります」
芹沢氏の言葉を遮った先生がかなり怒っていると気づいたのか、芹沢氏も社長も何も言えなくなってしまった。
――親代わり。
彼が私にとってどういう存在かを表す言葉として、それが相応しいのか私にはよくわからない。
阿久津友則は油彩画家である私の父の弟子だった。私の家に居候をしていたから、幼い頃は彼を父よりは話しやすい二人目の父のように慕っていた。
若いながらも数々の賞を総なめにした彼は、新進気鋭の画家ともてはやされていた。
それがあの転落事故で一変した。彼は長い長いスランプに陥ってしまったのだ。
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