花よりほかに

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私が大学に入るのを待っていたかのようにフランスに移住した両親は、私に阿久津先生の身の回りの世話をするように言いつけてから旅立った。 私の実家で阿久津先生と同居しながら、私は家事全般を担っている。 だから、親代わりと言うなら私の方が親なのではと、つい思ってしまった。 「どういうことだ? バイトをしたいと言うから、朱美の画廊を紹介したのに。……おまえは何をさせられていたんだ?」 夜の赤坂の街を阿久津先生に手を引かれながら歩いて行く。 時折、酒臭い通行人とぶつかりそうになりながら、地下鉄の駅へと向かっていた。 「事務です。たまに接客もしますけど」 先生の手がひどく冷たい。コートの襟元からいつものダンガリーシャツが覗いていた。 二月の末の東京はまだまだ寒い。それなのに先生はコートの下にダンガリーシャツ一枚しか身に着けていない。 自分の格好に頓着しない先生でも、普段外出する時は身なりを整えてそれなりの服に着替える。 それが今夜は部屋着にコートをひっかけただけ。よほど慌てていたのか、初めから挨拶したら帰る気でいたからか。 「接客というのがさっきみたいなことを言うのだとしたら、もうやめなさい。朱美はおまえにどこまでさせていたんだ?」 ぎゅっと強く握られた手が痛いぐらいなのに、私は嬉しいと思ってしまった。 「別に。お酌をするぐらいで。それより先生、どうして今夜はわざわざいらしたんですか?」 作品が売れると、社長はすぐに画家に電話を入れる。画家の中には生活に困窮している者も少なくないので、朗報は早い方がいいからだ。 今回のように高く売れた場合はお礼の席を設けるが、そこに画家が顔を出すことなどなかった。 「先日、個展に行った時に穂高が変なことを仄めかしたから」 穂高という男は阿久津先生と同じく父の弟子だった人で、阿久津先生の後輩でありながら今や押しも押されもしない有名画家となっていた。
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