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「穂高先生が何と?」
「阿久津さんがお嬢さんに食わせてもらっているというのは本当なのか、と」
”お嬢さん”という言葉の響きが懐かしかった。
四~五人いた父の弟子たちは、みんな私のことを”お嬢さん”と呼んでいた。
大の男たちが小学生の私に敬語を使う。それがまるでお姫様扱いをされているみたいで気分が良かった。
ただ一人、阿久津先生だけが『美桜』と呼び捨てにして敬語も使わなかった。ただし、それは二人きりの時だけだ。幼い頃はそれが父親のようだと感じていた。
でも、あの頃は。
桜の木から落ちた時、私は十歳だった。
自分の身体がどんどん大人に近づいていくのを、否が応でも感じずにはいられなかった頃。
私を呼び捨てにする阿久津先生を、もう父のようだとは思えなくなっていた。
「食わせてもらってるって、何ですか? 私のバイト代で先生を養えるとでも?」
昔から穂高は阿久津先生をライバル視して嫌味なことを言う奴だった。その嫌味に気づいていないような先生にずいぶんイライラしたものだ。
今もそんな感じで先生は穂高の個展に嬉しそうに出かけて行ったが、そういえば帰ってきた時から様子がおかしかった。
「穂高は『山岸画廊は女社長とバイトの女の子の色仕掛けで絵を売っている』という噂を耳にしたらしい」
苦虫を噛み潰したような阿久津先生の顔を見ながら、こっそり苦笑した。”お触り”までは許しているのだから、色仕掛けと言えなくもない。
でも、こんなことはどこの業界でもあることだろう。ウエイトレスやお茶出ししたOLが客にお尻を撫でられる。うちはそれよりちょっとサービスしているってだけ。
「俺はそんなことまでして絵を売りたいとは思わない!」
「社長はきっかけが必要だと言っていました。たとえば今日の芹沢氏みたいにリピーターになってもらうためにも。焼き肉屋がお会計の後にくれるミントガムみたいなものだって」
「おまえの身体はミントガムじゃない!」
真面目な顔で言い放った先生を呆れた目で見つめた。
先生は世間を知らなすぎる。そんなところも好きなんだけど。
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