桜の記憶

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チリンチリン 「いらっしゃい」 ドアが開くと鳴る鈴の音が、店内に軽やかな音を響かせる。 春の暖かく柔らかな風と共に入って来たのは、60も過ぎた白髪混じりの男性だ。 彼の名は松下 幸助さん。 父親の勉さんを乗せた車椅子を押して、その男性はよくやって来る。 「おはよう、雅子さん。今日も良い天気ですね。珈琲、ブラックを1つ。お願いします」 いつものように優しげな笑顔でそう言って、幸助さんは窓際のテーブルに車椅子を付け、自分も席に座る。 「はい」 そう言って私は珈琲を淹れる。 車椅子に座る、年老いた父親の勉さんは、窓の外に立つ、大きな桜の木を眺める。 これがいつものこの店での光景だ。 勉さんはもう97歳になるらしい。 いつもやって来る時は目を閉じているが、この窓際に座ると、ふっと目を開けて桜を見ていた。 もう耳も遠く、あまりお話もされないようだ。 「今年も綺麗に満開になりましたでしょう?」 「ええ。親父もこの桜が大好きなんですよ。もう目なんて殆ど見えていないんですけどね。それでもきっと、この満開に咲く綺麗な桜の色で、母さんの事を思い出してるんですよ」 ふふっと笑い、今置いた珈琲をひとくち飲む。 「桜が奥様との想い出だなんて、何だか素敵ですね」 独り身の私にとっては、夫婦愛と言うものはよくわからないけれど、そう感じた。 「母さんはもう30年程前に死んだんですけど、親父、葬式の時は流石に辛かったみたいで泣いてたんですよ。俺の前では厳格な親父だったから少し驚きました」 「それほど、愛されていたんですね」 勉さんは、そっと何かに思いを馳せるかのように、目を閉じた。 「親父と母さんにも色々あったみたいでね。この前、親父も先が長くないだろうから、色々整理してたら若い頃の日記が出てきたんです。ふたりにもドラマがあったんだって、少し親父の見方も変わりました」 「へぇ。もし良かったら聞かせていただけますか?」 「えぇ。少し長くなりますけど・・・」 そう言って、幸助さんは桜の木を見上げ、ゆっくりと話始めた。
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