奴隷に名前は不必要

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 私はね、常に弟の幸福を願っているのだよ。彼の為なら何物であろうと冒涜してみせる、たとえこの命が尽き果てようとも、ね。この感情が決して倫理的に称えられた類のものではない事は良く知っている。けれど安心して、私は感情に飲まれた訳では無いよ。私の理性が感情に従うことを私に強いるんだ。私は理性の奴隷だ。今思ったのだが、私が理性の奴隷であるならば、きっと私の理性は弟ということになるのかな。古代ギリシャやローマでは奴隷制が存在したが、雇い主と奴隷の関係というのはやはり三者三様であろうか。雇い主が奴隷の理性になるという関係性もあったのやもしれない。そういや、傍から見ると私の弟への態度は“奴隷根性”と呼ばれるものらしいよ。奴隷たる者、主人に尽くすべし、とかなんとか。せめて愛と言って欲しかったね。今私は愛、と言ったが、正確に言うと違う、私が弟に抱くものは愛ではない。欲でもない。弟に対して情欲だとか肉欲だとかは湧かないからね。正確に述べるのはとても難しい。私は弟に自分自身を委ねることで自分自身を放棄したのだ。自由を売り、安寧を買った。そんなところかな。不幸なことに文学には造詣が深くなくてね、分かりにくくて済まない。  観念的な話はこれくらいにして、実際的な話をしよう。今、私の命は風前の灯火だ。何故か?出血多量。案外深手でね。刺された時はそんなに痛まなかったのだが、やはり彼が包丁を抜いたのが致命的だったよ。彼が私を殺そうとした理由は私には分からないし、どうでも良い事だ。私に大切なのは、ただ一つ彼の罪を消し去る事のみである。大事な弟が私の為に面倒ごとに巻き込まれるのは私にとって最上の苦しみだからさ。さて、私にはやる事が幾つかある。まずは部屋のドアや窓の鍵を閉める。これで推理小説によくある密室の完成だ。弟の犯行だとは判るまい。名探偵でも来るなら別だがね。でもまだ終わりではない。ドアと窓に伸びてしまった血痕、それを隠せば完璧だ。どう隠すか?木の葉を隠すなら森の中、という言葉があるだろう。まあ、あえて説明する必要はあるまい。最後に彼が残していった包丁から指紋を拭き取り、 代わりに私の指紋を付ける。私は包丁を握り、自らの脇腹に 。  とまあこんな感じで進めようと思っている。それじゃあ失礼するよ。急いでいるんでね
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