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目の前に広がる血の海。
ーーあぁ……これは俺の腹から流れているのか。
最悪だ。車から降りたところをヤられたのか。意識が混濁していた男は、最期の力を振り絞って腹から流れる血を抑え、通りに向かった。運良くつかまったタクシーに乗り込み、浅い呼吸をしながら、運転手に行き先を伝える。
「……医科大学病院」
「はい?」
「グズグズしねぇで、早く車を出せ」
運転席を蹴った弾みで傷口からドロッと血の塊が溢れ、ドスのきいた声に震え上がった運転手は急いで車を走らせた。腹は痛みを通り越して、しびれのようなものを感じる。血液はそこへ集まり、頭は酸欠状態で意識が今にも途切れそうだったが、真綿で包まれるような温かな気分でもあった。
ーー好機がこんなにも早く巡ってくるとは、思ってもいなかったな。
白髪交じりの男は、笑みをこぼしジャケットの内ポケットからシガーケースを取り出した。いつものように煙草を口に咥え、ライターを手にするが滑ってうまくつけることができない。何度か繰り返したが、男は力尽きたように手を投げ出した。
「お客さん、車内禁煙ですよ」
その声は、男の耳へ届かない。
煙草を吸う事をやめた客に運転手はそ
れ以上、何も言わず、ここいらで一番大きな大学病院へと車を走らせた。
まだ男の躰は暖かい。だが、流れ出る血はシートの白いカバーを真っ赤に染め、呼吸はすでに止まっていた。
ーーどんな悪いヤツだってな。誰かにとっては、天使になれるのよ。
酔っ払うと良く口にしていた男の言葉だった。
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