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「ここ?」
『うん』
伊月は、鞄から手紙を取り出した。どこからともなく甘い香りがするこの店へ、Sに導かれながらバスに乗りやってきた。
「チョコレート屋さんだよね。俺、初めてだな」
『チョコレート屋さんじゃなくて、ショコラトリーって教えただろ。いろんなショコラがあるから、寄っていけば? あいつの作品は、どれも素晴らしいんだ』
「惚気なんか聞きたくない。仕事を済ませたら、すぐに帰るから。Sは死んでるんだから、食べられないよ。諦めな」
『伊月は、いつもはっきり言うよね』
「この場所、Sが死んだ時と変わってない?」
『変わってない』
「なら平気だ」
白杖を鳴らす音は、周りに気付かれてしまうから折りたたんで鞄にしまい、まぶたの裏にSがみている風景を映しながら歩き始めた。まだ季節には早い猫柳の枝を避け、店の脇を通って裏口へ向かうと、そこに郵便受けがある。持っている手紙をそこへ届ければ、伊月の仕事は完了だった。
"不帰の客の言葉を伝える"
伊月はそれを仕事と言っていた。不帰の客(フキノキャク)とは死者のこと。田神と会話する上での暗号のような物だ。今回の客はSーー。
「S、そろそろお別れだね」
『楽しかった。まさかこんなヤツがいると思わなかったし』
「男好きとか……初めてだったけど」
『お前だって気をつけろよ。こないだの公園でのこともあるし。鏡で自分の顔、何年も見てないんだろ?』
「当たり前じゃん。見えなくなり始めたの高一の頃だったし、それにあまり鏡って見なくな……」
目の前で、扉が開く音がした。気を許す仲になっていたSとの会話を止め、伊月は青ざめた。
ーー失敗だ。
この手紙のことを根ほり葉ほり聞かれても困るから、いつも姿を見られないように手紙を郵便受けに入れたら、さっとさと立ち去る。それが鉄則だった。
「びっくりした。業者さんでは、なさそうだね。お店の入り口はあっちだよ」
さっきまで饒舌に話していたSの声がしなくなった。この男が手紙の受取人なのだろうか。手紙を届ける相手に遭遇したのは初めてで、教えてもらわなければ分からなかった。伊月は不帰の客の思い出をまぶたの裏で見ることはできても、声までは聞くことができず、イメージしていたよりもずっと低い声だった。
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