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「あの、これ」
初めての失敗に、伊月は予定を変更した。Sが黙り込んでしまっては、どうすることもできないからだ。封筒には名前が書いてある。男が受取人であると賭け、持っていた手紙を声のする方へと差し出した。
「ラブレターかな」
「はい。Sからの手紙を届けに来ました」
「え……」
男は、明らかに動揺していた。賭けは伊月の勝ち。この男が受取人で間違えなかった。が、手紙を受け取ってくれる気配はない。
「表ですね。そっちから入ります」
「あ……はい」
踵を返して表に回ろうとすると、さっきは避けれた猫柳の枝に頬を打たれ、驚いた伊月は転んでしまった。
「痛っ」
Sが完全に気配を消してしまってるから、景色がまったく見えない。そんなSに少し腹を立てながら、仕方なしに鞄から白杖を取り出した伊月は、あたりを探りつつ立ち上がろうとする手を握られた。
「大丈夫?」
「スイマセン」
「目、見えないの?」
完全に見えないわけではない。いわゆる弱視。ハードのコンタクトレンズが全く合わず、視力の矯正が難しい状況だった。そのうえ、両眼に角膜水腫が良く起こり、医者の勧めでアイバンクへ登録した。白杖を使うようになったのも、この二年ほどだ。見えていた時があるぶん"見えない"と認めるにはまだ抵抗があった。
「失礼な言い方だったね、ごめん。おいで、店に案内するよ」
「……Sが言ってた通りだ。貴方の手は温かいね。だから、いつも手を冷やして仕事してるって教えてくれた」
伊月の手を握る手が一瞬だけ震えた。導かれながら歩き、階段を三段あがるとドアベルが小気味良い音を立てる。
「もう閉店まで三十分もないから、今日は終わりにするよ」
店内の空気がすでにチョコレートだった。それに混じって焼いたナッツやスパイスのような香り、果物の匂いもする。伊月が初めて訪れたチョコレート屋は、幸せな匂いの詰まった空間だった。
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