発端

1/1
前へ
/3ページ
次へ

発端

ザアッ、 ザザアアア… 小波、大波。 重く垂れこめた黒い雲。 波が荒いので有名な白兎海岸だが、今日は凪いでいる。夏にサーフィン客で賑わう海辺には、人っ子一人見あたらない。 私は外科医だ。 隣県の山村で小さな医院を経営している。 私がこの海辺に降り立ったのは、数日前のこと。 "こんな冬に観光客なんて珍しいねえ" 民宿の女将には笑われたが、私は別に、観光に訪れたのではない。 かの有名な日本神話、「因幡の白兎」伝説を調べにやって来たのだ。 発端は2か月前のこと。 趣味で所属している民俗伝承サークルの集まりで、興味深い話を聞いたのが始まりだった。 「『因幡の白兎』の話を知ってるか?」 あるメンバーが、唐突に切り出した。 「ああ。島に住む兎がワニを騙し、その背を伝って海を渡るが、陸まであと一歩のところで嘘をばらした。怒ったワニは兎を捕まえ、全身の皮を剥いた、ってやつだろ」 「そう。ちなみに、”ワニ”は方言でサメのこと。 で、そこにたまたま通りかかった大黒様が、兎に治療を施し、兎はめでたく元通り、ってな」 「ああ。だが、それがどうしたんだ?」 「いやな、それが地元のヤツに聞いた話じゃ… あ、ちなみにあれ、島根じゃなくて、鳥取の海岸が舞台な。 あの時兎が包まっていた"蒲の穂綿"。あれ、マジであるらしい。 なんでも、海岸沿いに古びた神社があってよ。その山奥の小さな沼に、黄金色に光る(ガマ)が生えている。心正しきものにのみ、その姿が視えるそうだ。 なあ、完璧な皮膚の再生なんて、お前なら垂涎ものなんじゃないのか?」 何とも荒唐無稽な話だと、その時は鼻で嗤ったのだが。 その後、私が本気でそれを探しに行こうと考えたのは、正にその時受け持っていた患者のためであった。 それは、酷い火傷を負った子どもで、将来、酷い跡が残るのが目に見えていた。両親は己の不注意を責め、嘆いていた。 主治医として、何とか彼らを助けたかった。 私は、彼らの診察を終えたその日、その足で山陰行きの特急に乗りこんだのだ。 数日間、海辺の民宿に泊まり込み、海岸沿いの神社の裏山を、私は足を棒にして探して回った。そして… それは、あった。 「おおお」 白兎を祭る神社の裏山の、そのまた奥の湖沼に、金色に輝く蒲が群立している。 その美しい光景を、私は一生忘れないと思った。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加