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僕の輪郭をした空白(ヌル)が、オレンジの海へ落ちていく。何物にもなれない空白(ヌル)は周囲に広がる意識(var=[will])の海を波立たせ、その波紋は瞬く間に大規模な思考振動(オーソレイション)となって海の色を裏返してグチャグチャにしていく。
中央意識管轄情報センターの連中に感知される前に、僕は早々に退散を決断した。憂さ晴らしはもう十分だろう。
携帯型意識翻訳器(P.C.T.)の探針(プローフ)を引っこ抜くと、肌にできた小さな穴から血液がワインのように溢れ始めた。
「やっべ……」
『――わ、今日もキレイな赤い色! 妬いちゃうわぁー』
不意に、背後からけたたましい人工音声が響く。生の肉声より滑らかな現代の主流派ではない、たどたどしさの残る高いその声は、人工音声初期におけるVOICELOIDと呼ばれる前時代の遺物だ。そうだとすれば、当然使用する人間――いや、その端末も自然と限られてくる。
「後ろから覗き見とか、趣味悪いね、アルジャーノン」
苦々しく言葉(ワード)を紡ぎながら、僕はゆっくりと振り返った。
既存の対外商業用(TYPE-purple)をベースに魔改造されたそれは、ショッキングピンクとライトグリーンの迷彩柄という悪趣味なカラーリングの施された特別製である。その混沌の色彩の向こうにある意識(var=[will])は、今朝僕に虚飾(ディスプレイ)まみれのメッセージを送り付けた張本人に他ならない。
『ちゅーちゅッ! クドがあんまり遅いから、悪い猫に捕まっちゃう前に迎えに来たんだよー』
頭が痛くなるようなテクスチャを吐き出す端末だが、言外に来るのが遅いと言いたいだけだろう。
『かわいそうだけど、治療はアタシのおうちに着くまで待ってね? 持ち合わせはないんだ』
そう言って先導を開始する端末ドローンの後ろを、僕はトボトボと着いて行く。もしこの状況をだれかの意識(var=[will])が知覚していたら、多分すごく情けないんだろうなと思いながら。
――――
僕は混沌を覗き込む。混沌も僕を覗き込む。誰でもない僕と誰でもない混沌、二人っきり。これはこれで、フェアってやつだろう。
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