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 夕方を過ぎて降り出した雨は、一向に止む気配はない。  冷たい雨は絶え間なく、寺島桔平に降り注ぐ。  被っていたフードは水を吸い、スニーカーは内部まで浸水していて足先が冷える。  街灯が疎らに立つ住宅街の裏道を、桔平は歩いた。  どの家からも、窓から明かりが漏れている。  暖かい家の内では、明るい光の下で、人々が安寧に過ごしているのだろう。  外で音もなく降り頻る雨など、気に留めることもなく。  桔平の足取りは、重い。  食事もまともに摂れていない身体から、雨は容赦なく熱を奪ってゆく。今日、口にしたのは、栄養補助食品のゼリー飲料のみだ。  食事が出来ないほど、忙しかった訳ではない。  山で育った幼い頃から、食べるのは生命維持に必要な分くらいだった。虫も蛇も、何でも食べた。茸や山菜に毒があるかも、少し齧れば判る。食べられるかどうかが重要で、味など考えたこともなかった。  そう──あの時までは。  この町に来て、まだ日の浅い頃。  仕事の帰りに偶然見つけたのは、古い民家だった。  人の気配はなく、生垣も気ままに伸びている。おそらく、無人になって久しいのだろう。  誘われるように、そろりと敷地に入ってみる。門もないので侵入は簡単だ。数歩もしないうちに引き戸の玄関があり、生垣の内には小さな庭がある。草が野放図に生い茂っているのが、街灯の明かりでも判った。  庭先に、腰を下ろす。  視線を感じて目をやれば、建物の陰から黒猫が一匹、こちらを見ている。 「お前の縄張りか? 悪いな……ちょっとだけ、貸してくれ」  黒猫は身を翻し、逃げて行った。  不思議と、落ち着く場所だった。幼い頃を過ごした山を思わせる気が、ゆっくりと全身に染み渡る。  住宅街の隅に、ひっそりと忘れられたように建つ民家──そこに通うのが、桔平の習慣になった。  連日のように通い詰めることもあれば、数週間を空けることもある。黒猫に遭遇することはあったが、一度として人の姿を認めなかった。それも含めて、桔平には過ごしやすい場所だと言えた。
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