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 あてどなく彷徨い、気が付けば、あの民家の前に立っていた。  家の内から、温かい光が漏れている。変わりのない清浄な気に引き寄せられるように、そろりと敷地に入る。そうして、庭先に腰を下ろした。  疲れていた。  抱えた膝に額を乗せ──全身に染み込む心地よい気に、眠気を誘われていた時。  不意に、腕を掴まれた。 「随分と、体が冷えているな」  その声は、以前にも聞いた。桔平に、中に入るよう促した男のものだ。そろりと見上げれば、思ったより近くに男の顔がある。精悍な顔立ちで、漆黒の瞳には気遣わしげな色があった。 「立てるか?」  触れられた場所が、随分と熱い。  体格の良い男に、しっかりと腕を捕まえられてしまった。今の桔平に、それを振り切って逃げるだけの体力も気力も、残ってはいない。  素直に立ち上がれば、男は安堵したように微かな笑みを浮かべた。  促されて足を踏み入れた家の中は暖かく、清浄な気に満ちている。  男はカウンター席の一つに桔平を座らせると、置いてあったタオルを握らせた。 「随分と、用意が良いんだな」  桔平の呟きは、カウンター越しにも男の耳に届いたらしい。  ああ、と何でもないことのように言う。 「以前、雨の日に見かけて、気になっていた。あれから外を気にするようにしていたが、見かけなかったな。それでも今日は、何となく……お前が来るような気がしたんだ」  何となく、な。  そう言って微笑う男は、武明健太郎と名乗った。  人との関わりは、煩わしい。それなのに、自分の氏名がするりと唇から零れ落ちるのを、桔平は不思議な気持ちで聞いていた。
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