46人が本棚に入れています
本棚に追加
/63ページ
あてどなく彷徨い、気が付けば、あの民家の前に立っていた。
家の内から、温かい光が漏れている。変わりのない清浄な気に引き寄せられるように、そろりと敷地に入る。そうして、庭先に腰を下ろした。
疲れていた。
抱えた膝に額を乗せ──全身に染み込む心地よい気に、眠気を誘われていた時。
不意に、腕を掴まれた。
「随分と、体が冷えているな」
その声は、以前にも聞いた。桔平に、中に入るよう促した男のものだ。そろりと見上げれば、思ったより近くに男の顔がある。精悍な顔立ちで、漆黒の瞳には気遣わしげな色があった。
「立てるか?」
触れられた場所が、随分と熱い。
体格の良い男に、しっかりと腕を捕まえられてしまった。今の桔平に、それを振り切って逃げるだけの体力も気力も、残ってはいない。
素直に立ち上がれば、男は安堵したように微かな笑みを浮かべた。
促されて足を踏み入れた家の中は暖かく、清浄な気に満ちている。
男はカウンター席の一つに桔平を座らせると、置いてあったタオルを握らせた。
「随分と、用意が良いんだな」
桔平の呟きは、カウンター越しにも男の耳に届いたらしい。
ああ、と何でもないことのように言う。
「以前、雨の日に見かけて、気になっていた。あれから外を気にするようにしていたが、見かけなかったな。それでも今日は、何となく……お前が来るような気がしたんだ」
何となく、な。
そう言って微笑う男は、武明健太郎と名乗った。
人との関わりは、煩わしい。それなのに、自分の氏名がするりと唇から零れ落ちるのを、桔平は不思議な気持ちで聞いていた。
最初のコメントを投稿しよう!