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「桔平、か」
低く柔らかな声で名前を呼ばれるのは、思ったよりも悪いものではなかった。
「温まって行くといい」
肌触りの良いタオルで髪を乾かした桔平の前に、熱いお茶と卵粥が出される。食べ物に欲求を覚えたことはないと、正直に告げるのは躊躇われた。
「金が無い」
遠回しすぎる断りの言葉を吐く自分に、嫌気がさす。素直に要らないと告げるには、男の目は優しすぎた。
本音を隠し、嘘を重ねることでしか──他人との関係は、成り立たない。そんなものは煩わしいと、厭い憎んでいたはずなのに。
何故だろうか。
この時だけは──ほんの少しだけ、哀しいと思った。
男は、小さく笑う。
「いいさ。どうせ、余りものだ」
食べろよ、桔平──その口調に、強制の意図は感じられなかった。それなのに、まるで操られるかのように、桔平は粥を掬って、口に入れていた。
食べ物を、美味しいと感じたのは、初めてだった。
あの時の卵粥の味を思い出し、桔平は足を速める。
暖簾を下ろした引き戸を開ければ、健太郎は穏やかに微笑んで迎えてくれる。何もないぞと言いながら、出された皿が一枚であったためしはない。
自然と、頬が緩む。
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