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 どうした、奏──柔らかな声が返事をして、前にあった気配が消える。  そっとタオルをずらし、様子をうかがう。  氷上が健太郎に、何かを囁いていた。  最初に会った時の、きつく冷たい印象は、拭うように消えている。澄んだ目で真っ直ぐに健太郎を見つめ、赤い唇が動く。名前を呼んだ時も、そうだ。その声は柔らかく、甘えるように響く。  氷上の造作が驚くほど整っていることに、桔平は初めて気づいた。  その美しい面を、健太郎は優しく見つめている。いつも正面に見ていた穏やかな微笑みが、今は氷上に向けられている。低く柔らかな声で何らかの言葉を返し、氷上と健太郎は小さく笑い合った。健太郎が少し身を乗り出すようにしているのは、氷上の声を聞き逃さないためだろうか。二人の顔は、とても近くにある。  そのまま、キスでも、するんじゃないか──そんなことを考えた自分に、驚く。  氷上の赤い唇が、やけに生々しく映り、桔平は目を逸らした。  あいつも、ここの常連になるかもしれない──そう言った健太郎の言葉は、正しかったのだろう。視線を絡ませ、名前で呼び合う二人の、親密な空気。桔平の知らない二人だけの時間は、きっと短くはない。   氷上の前には、複数の皿がある。空になったもの、まだ料理の残るもの──その中に明太子の巻かれた卵焼きを見付けた時、桔平は立ち上がっていた。 「用事、思い出した」  タオルを置いてジャケットを掴むと、逃げるように店を出る。健太郎が名前を呼ぶ声が背中に聞こえたが、走る足を止めたりはしなかった。        
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