〈過去〉19歳・初夏

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私が今日、どんなつもりでここに来ているかを壱吾は知らない。 だけど私は、さも会いたかったように静かに腕の中で頷き、演技をする。 「キスしたい………」 サラ、と髪を梳かれ、耳元に唇が触れる。 私は壱吾の腕から逃れるようにグイ、と胸を押し返すと、 「寝ぼけ過ぎ」 「久々だし」 「さっさと顔洗ってきなよ」 何故か口元を緩めた壱吾は、私の頭をくしゃっと撫でてから洗面所へと向かった。 たったこれだけで泣きそうになってちゃダメだ。 私はグッと唇に力を入れて、玄関からリビングへ足を進めた。 相変わらずテーブルの上はノートパソコンと教科書とレポート用紙が占めていて、ベッドは起きたままの形を残している。 部屋をぐるりと見渡したあと、クローゼットを開けて、置いたままの私服とルームウェアを持ってきたショップ袋へ突っ込み始めた。 「かのーん」 洗面所から私を呼ぶ声が聞こえたかと思えば、こちらに向かってくる足音が耳に届く。 「今日、どうす、……なにやってんの?」
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