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少しの沈黙のあと、ゆっくりと香音がこちらを振り向く。
もっと冷たい視線を向けられるかと思っていたのに、香音は見事な営業スマイルを浮かべていた。
「……初めて会ったばかりなのに、馴れ馴れしくないですか?」
初めて交わした言葉には、棘が混じっている。
そもそも"初めて"ってなに?
「初めて?何の冗談?」
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
そんな見え透いた嘘に騙されるわけがない。
「忘れたわけじゃないだろ。俺達は……」
「人違いじゃないですか?」
………ふーん。そういうこと。
意地でも”初対面”を装いたい香音にまた一歩近付くと、微かに香音の肩が揺れる。
こんな嘘をつく香音に少なからず心は痛むけれど、今はその嘘に乗っかってみるしかない。
「……人違い、ね。そうしたいなら、合わせてあげるよ。北見さん?」
香音の肩に手にしていたコートをバサっと掛けてあげると、少しだけ目を見開いた気がした。
「風邪引かないようにね」
そう言って俺は、香音に背を向けた。
とりあえず今はこれでいい。
「…………あー、手汗やべ」
思いがけない再会が、俺の心を軽くする。
決して状況がいいとは言えないけど、それでも待ち焦がれた香音が目の前にいた。
その事実に浮かれすぎて、立ち去る背中に向かって小さく俺の名前を呼んだ香音には気付かなかった。
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