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おじいさんがいなくなって、私は必然のようにおじいさんのマネージャー仕事を継いだ。
見た目の通り、彼に生活力がないのを知っていたし、私もまた彼の絵が好きだったから。
彼が絵を描き続けるのはおじいさんの夢で、私の願いだった。
私はアトリエの、でたらめに置かれた物たちの間を避けて歩く。
部屋の奥に飾られていた絵の前に立った。この家に来ると、いつもこの絵を見ずにいられない。特に春のこの季節は。
「この絵は、売らないでね」
彼は、ひょろりと高い背を丸めるようにして、私の隣に立った。
「咲乃が売れと言っても売らないよ」
夜の公園に咲く、桜の花明りの絵。
その中に、三つの人影が描かれている。間に子供を挟んで、手をつないで立つふたりの大人。
地面に影を落とすひと組の親子のようで、本当は、おじいさんとおばあさんと彼の姿。
悲哀の紺と、明るい桜の包み込むような対比、そこに込められた悲しみと、にじみ出る優しさに、慈しみに、見ているとたまらなくなる。
彼の絵には、やわらかな作風の中に、いつも静かに、たくさんの思いが力いっぱい込められている。だからひきつけられる。こんなにも心の奥に入り込んで、胸を苦しくさせる。多くの人が求めてやまず、そして簡単には得られずに苦しんでいるような、そういった深い気持ちにあふれている。
汚れたものもきれいなものも包みこんで、一つにして、優しく見ている、そういった目線を感じる。
ぼんやりしているようで、それが彼なのだ。
「春の幻想」と人が彼を呼ぶ、その理由がすべてここにある。
「ねえ、咲乃」
絵に見入っている私に、彼はさりげなく言った。
「……うん」
「いつここに越してくるのかな」
私は彼を見た。私は街に住む一人暮らしのしがない会社員で、実家はこの家の隣だ。
古い家屋に、風が流れ込んでくる。
彼の後ろで、荒れ放題の庭に咲いた花がゆれる。
おじいさんが生前、大切に手入れしていた桜の花が揺れ、花びらが部屋に舞い込んでくる。彼の画材やキャンバスに降り注ぐ。桜の絵を撫でて、はらりと落ちた。
そして風はふわりと彼の前髪を揺らす。彼はただ微笑んで私を見ている。
「うん、とりあえず、来週かな」
おじいさんの七回忌だ。
その頃には、もう葉桜だろうか。
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