口に入れるのがもったねえ

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口に入れるのがもったねえ

"世の中は 地獄の上の 花見かな" 小林一茶 「へえ」 国枝正嗣は机に置かれた和菓子を見て少し驚いた。 どうせ出るのは煎餅か何かだろうと思ったが、季節を纏った風流なものが出てきた。 桜色のねっとりとしたもち米が鶯色の葉に包まれ、彼の目を楽しませる。 その横では緑茶が湯気を立てていた。 「そうか。春だったな……」 彼は粋な計らいに少し口元が緩んだ。 「よろしければどうぞ」 僧侶が静かな声で菓子を勧めた。 彼が用意したのだろうか。 国枝は聞こうかと思ったが、意味がないのでやめた。 彼は何も食べる気はなかったが、思いもせぬ和菓子につい手が伸びてしまう。 鼻を近づけると葉のしょっぱい匂いと餅の甘い匂い。 和菓子の良し悪しなど彼にはさっぱりだったが、きっと美味いだろうと思った。 口の中にじわっと広がる唾液。 国枝は最後にこういう菓子を食べたのがいつだったか思い出そうとする。 すぐにやめた。 過去など振り返ってどうする。 「召し上がりませんか?」 「うーん」 彼は久しぶりに物事を迷った。 食べてもいいし、食べなくてもいい。 別に食べないことに意地になってるわけじゃない。 それでも……。 「やめとくよ。なんかもったいねえ」 彼は手に取った桜餅を皿に戻し、代わりに緑茶で少しだけ喉を湿らした。 僧侶が残念そうな顔になった。 「それは残念です。しかし、もったいない、ですか」 「ああ。俺もこんなことを思ったのは初めてだ。今さらなんでかねえ?」 「私にはわかりかねます。しかし、良い言葉ですね」 「もったいない、がか?」 「ええ、人間らしい言葉です」 人間。 こいつは俺を人間と思っているのか。 国枝はどう返せばいいかわからなかったが、何か言いたかった。 「ええと……坊さん、名前は?」 「私でございますか?私は岸田六郎。法名は勇六です」 「勇六、か……。ありがとよ」 「何が、でしょうか?」 「いや、いいんだ。忘れてくれ」 彼は椅子から立ち上がる。 勇六も立ち上がろうとしたが、国枝が止めた。 「やめてくれ。神仏なんて信じてねえんだ。経文なんて欠伸が出るぜ」 彼はそう言うと隣にずっと立っていた男たちと別の部屋へ歩いていった。 勇六。 国枝はなぜかその名前を覚えておこうと思った。 およそ1分後、国枝正嗣57歳の死刑が執行された。
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