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「歌を聴かせてよ、高畑」
「う、歌か? 良いけれど何を歌うんだ?」
「それはもちろん『同期の桜』だよ。そうだな、右手で音頭を取りながら歌ってくれ」
まだ空が暗い早朝ではあるが、かなり恥ずかしい。それでも佐倉は、
「大きな声で元気よくね。それと、君の気の済むまでリピートすること。それから歌っている間は絶対にこちらを振り返っては駄目だよ」
「歌詞はかなりうろ覚えだぞ。お前と歌わされて以来なんだからな」
「いいよ。ほら、ちゃんと前を向いて。準備はいいかい? いち、に、さん、はいっ」
一拍遅れて、俺は破れかぶれで右腕を振りながら歌い始める。
「貴様と俺とはぁ、同期の桜ぁ」
目を瞑り、歌詞を思い出しながら声を張り上げた。短い息継ぎで朝の冷えた空気を取り込んで腹から吐き出す息に言葉を乗せると、花びらの舞う桜の下で歌い続けた。
一番から五番までの歌詞を繰り返すうちに、閉じた瞼の向こうが明るくなった気がした。仄かに吹く風も温かく感じる。大きく振る右腕が痺れ、張り上げる声もだんだん掠れて喉の渇きに、ごほっと咳き込んだとき、小さく俺の耳にその声が聞こえてきた。
――高畑、ありがとう。
瞼を開くと飛び込んできたのは薄く明けゆく靄のかかった空。俺は反射的に後ろを振り返ったが、そこにはもう彼の姿は無く、ベンチの上には佐倉にやった缶ビールが残されていた。
ベンチに座ってその缶を手に取るとずしりと重みを感じた。口をつけても殆ど飲んでいなかったのだろう。缶を見つめていたら、ひらりと一片の花びらが飲み口にくっついた。俺はその花びらを払うことなく、ビールと一緒に口の中に流し込んだ。
「まずっ。……温いぞ、畜生」
喉の奥にビールの苦味とは違う塩気のある液体が流れ込む。花粉症でも無いのに鼻が詰まって、昇り始めた朝日がやけにぼやけて仕方がない。
俺は流れる涙を拭うのも忘れて、もうこの世にはいない同期の残したビールを飲み干した。
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