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カシャッと響いた音の方へ視線を向けた。そこは先日、俺が酔っ払って座っていたベンチの近く。この道の桜の中では一番に立派であろう木の花に、熱心にカメラを向ける人影が見えた。
俺はその人影に近寄っていく。土を踏みしめた俺の足音に気がついた男がファインダーから顔を離すと、
「今夜も遅くまで飲んでいたのかい、高畑」
彼だ。俺は彼の隣で歩みを止めると、
「今夜は残業だよ。帰ってから独りで晩酌だ」
「それは侘しいね」
「でも、こんな深夜にカメラを覗いているお前も侘しいと思うぞ? しかし凄い一眼レフだな」
「昔からの趣味が高じてね。今は夜桜を中心に撮り貯めているんだ」
俺はカメラは素人だが、彼が手にしている代物がプロ仕様の結構な物だということくらいは分かる。
相も変わらず名無しの権兵衛の彼に写真を見せてくれとねだってみた。彼は俺に肩を寄せると、先程撮っていたデジタル画像を示してくれる。カメラの画面に映し出される桜の花を男二人で覗き込む。
ピッピッと移り変わる画像に彼の腕前が相当なものなのが感じられた。しかし、
「本当に桜ばかりだな」
「なに? サクラはサクラばかり見ているなって当時の部長に散々聴かされた親父ギャグを蒸し返す?」
その台詞に脳裏に浮かんだのは、満開の桜の下で青いビニールシートに車座に座る会社の面々の姿。それは新入社員歓迎も兼ねた花見の場面。
俺は当時の部長に無茶振りされて、飲んで騒ぐ上司や先輩達の前で大声で歌を披露した。そして、その時歌ったのは部長リクエストの軍歌『同期の桜』。よく知りもしないその歌を肩を組んで俺と一緒に無理矢理歌わされた男の名は……。
「アーッ! 思い出したっ。お前、佐倉だ! 佐倉貴彦(さくらたかひこ)」
やっと喉につっかえていたものを吐き出した俺とは対称的に、目の前の男は苦虫を潰したような表情をすると、
「もしかして、僕の名前を今頃思い出したとか?」
「すまんすまん。この前は酔っ払っていたし、話が弾んで名前を確認するタイミングが測れなかったんだ」
「よく、正体不明の奴を相手にあんなに盛り上がれたね。でも、そういう人懐こいところが高畑の長所だ」
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