桜舞恋歌

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 吉野の山には鬼が住む。  確かにこの山には、鬼の一族がございました。頭目の名は「百鬼丸」といい、五十人ほどの手下を連れて、人里はなれた山奥でひっそりと暮らしておりました。  もともとは京の都を荒らしまわった鬼の一族・刃雷丸に与しておりましたが、生来、血を好まぬ性質であった百鬼丸は一族を抜け、この吉野の山に入ったのです。それ以来、鬼たる証を隠し、人目を避けて暮らしておるのでございます。  その一族の中に、ひときわ美しい若鬼がございました。  その名を、來桜丸と申しました。鴉の濡れ羽色の黒髪。すらりと伸びた手足。凛々しい顔立ちの若者を、鬼たらしめているのは、額から突き出た二本の角。しかし真珠色に輝く角は、若者の美しさを損なうものではなく、かえって、來桜丸の容姿を引き立ているのでございます。 「鬼子」として生まれてすぐに実の親から捨てられた來桜丸は、吉野の百鬼丸に拾われ、一族の中で育てられました。年若い來桜丸は、自分を捨てた親を恨むでもなく、まっすぐな心根の優しい若者でございました。  いつも鬼の里から程近い、山深くの滝へ出かけては山の動物達と戯たわむれるような若者だったのでございます。  季節は春。満開の桜は舞い散り、風は心地よく肌を包む春。  下弦の月が白々と桜を照らし、來桜丸の眼を楽しませておりました。月明かりに誘われて、百鬼丸の館を抜け出した來桜丸は山中を散策しながら、滝壺の方へ向って歩を進めていったのです。やがて、柔らかな風に乗り、來桜丸の耳に琵琶の音が聞こえてまいりました。  嫋々……嫋々。  このような夜更けに滝から琵琶の音が聞こえるなど、妖しが旅人を惑わそうとしているのか……。好奇心が揺らいだ來桜丸は、琵琶の音につられて滝へと向ってまいりました。  白い月明かりを浴びて、滝壺へ向って琵琶を弾いている女人の後姿が目に入り、來桜丸は足を止めて、しばしその琵琶に音に聞きほれておりました。染み入るような琵琶の音は、高く低く、悲しく切なく歌っております。  來桜丸がもっと近くへ寄ろうとした瞬間、女人の指が止まり、琵琶の音が絶え、辺りは静寂に包まれたのでございます。 「何者じゃ?」  微かに後ろを振り返り、誰何の声を上げたその顔の美しさ。くっきりとした鼻梁に月が淡い陰を落とし、夜目にも紅いその唇は意思の強さを感じさせて一文字に引き結ばれおりました。
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