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「これは、失礼。あまりにも美しい琵琶の音が聞こえてきたもので、つい……」
女人は表情一つ動かさずに來桜丸へ向き直り、しげしげとその顔を見つめながら口を開き、こう申したのです。
「かような刻限に一人で夜歩きとな。そなた、妖しの類たぐいかえ? わたくしを喰ろうても、美味くはなかろうよ」
「い、いや。わたしは來桜丸。この吉野の山奥に住む者で、妖しではありませぬ」
「そうなのか? 別に妖しでも構わぬ。どうせ、わたくしが死んでも、誰も悲しみはせぬ」
命芽吹く春の夜に、なんとも物騒な事を口にする女人でございます。來桜丸は少々驚きながらも、女人に名前を尋ねてみたのです。
「わたくしの名など知ってどうするのじゃ?」
山から吹いてくる風に軽く結い上げた髪がふわりと舞い、來桜丸の鼻先を掠めました。ほのかに伽羅の香が鼻腔をくすぐり、來桜丸は一族以外の者と初めて口をきいた事を意識し始めたのでございます。
「では、何とお呼びすればよいのです?」
「……砂姫、と。皆はそう呼ぶ……」
これが、來桜丸と砂姫の出会いでございました。
「壱鷹の兄者、砂姫を知っておられるか?」
昨晩に出会った砂姫と名乗った不思議な女人の事を、薪割りをしていた年嵩の鬼に尋ねてみる事にしたのでございます。こんな気持ちは初めてでございました。気になって気になって仕方がないのでございます。
「砂姫? ああ、都の一条の大臣の姫の事じゃろう。都でも評判の美しい姫じゃと聞くが、難ありじゃぞ」
「難……とは?」
壱鷹は斧を振り上げる手を休めると、切り株に腰掛けて來桜丸を見上げました。
「一条の大臣の姫は、真の名を月姫と申される。生まれた時に、月の様に麗しい顔の赤子じゃというて付けた名前らしいのじゃが、これが長じても一向に笑わぬ娘でな。訝しく思った大臣が、高名な陰陽師を頼んで見てもらったところ、『月にも勝る』と付けた名前に月神が怒り、姫から心を奪っていったと申したのじゃ。それ以来、姫は笑いもせぬし、泣きもせぬと言うぞ」
額に流れる汗を拭って、壱鷹は不思議そうに來桜丸を見つめて申しました。
「何ゆえに、砂姫の事など聞くのじゃ?」
來桜丸は逡巡の末、昨夜、館を抜け出し滝壺で出会った女人が砂姫と名乗った経緯を壱鷹に話したのでございます。
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