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その人は、首を傾げて僕を見ると、ゆっくり口を開いた。
「待つことは、時に切ないですが、待ち人だと言われるのは、嬉しいものですね」
そう言って、微笑んだ顔はあの時と同じだった。
「あの、少し、話しても良いですか?」
「ええ」
その人は、僕と同じように膝を抱えて座り、僕の声に耳を傾けるような優しい顔をした。
話して良いかと尋ねながら、何から何を話そうか、考えてしまった。
「大人には大人の理屈や都合があって、僕の知る処でなかったけれど、僕も少しは大人になって、この十年来会うこともなかった人に会いに行こうか、それとも…少し迷っているのです」
「会いに行きたい。と思うから迷うのでしょう?ならば、行けば良いではないですか」
僕の迷いを払拭するかのように、間髪入れずその人は応えた。
「いや、そうですけど…、行って後悔するのじゃないかと。ん、なんていうか、右の道を行くのと、左の道へ進むのと、迷う感じというか…」
「愚かなことを」
「え?」
「右へ行こうと左へ行こうと同じこと。右にも左にも道などないのです。平坦な道も険しい道も貴方が造り、歩いて行くのです」
「でも…」
諭された、というより咎められた気がして、つい、そうじゃなくてと言いたくなったが、その人は、桜の木を見上げると、掌を開げてひとひらの桜を僕に手渡した。
「毎年、ほんの束の間、春を彩るように桜は咲きます。ただ、一度として同じ花が咲くわけではありません。今、咲こうとしていたその蕾も、雨に打たれ風に打たれて散ってしまえば、二度と咲くことはありません。そして、それを愛でる貴方も、昨年と同じではないはずです」
確かに。毎年咲く桜、毎年同じ風景のように思っていたけれど。
「貴方はもう、龍の背に乗らずとも、自分の足で会いに行けるでしょう?」
胸の奥がチクリとした。
「この池で釣り糸を垂れてはいけませんよ」と、この人は笑って言った。忘れずに居てくれたのかと、何か嬉しくなった。
はらはらと水面に散った花びらは、一枚、又一枚と沈んで行く。池の中にも桜吹雪。
今年の桜が散ってしまわぬうちに、桜色のタイを締めて、母の元を訪れてみよう。
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