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「行ってらっしゃい」
ああ、そうだ。そう言ってほしかったのだ。父でも祖父母でも、誰でもない誰かに、胸の奥に蕾のままある花のことを話したかった。
「男の子が泣いてはいけませんよ」
知らぬ間に涙が零れていた。あの時と同じ、頬に触れたふわりとした袖に、微笑んだ顔が覗く。
肩を抱く腕の温もりも、鼓動の音も聞こえない。
小さかった僕が、薄緑の衣に包まれてしまったように、淡い桜の香りが包み込む。
「ありがとうございます。会えて良かった。また、会えますよね?」
「ええ」
その人は、微笑みながら頷いた。
「桜の季節はひと夜限り。散らないうちに行ってらっしゃい」
声が背に触れる。
桜ヶ池に降る雨。
桜雨。
香りが風に舞う。
名前を尋ねそびれてしまった。
膨らみかけた桜の花が一つ、
掌に、あの人からの贈り物。
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