桜花降る池のほとりにて

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夜半から降り出した雨が風に舞い、ガラス窓を叩いている。桜の花も散り急がされているに違いない。 一昨日辺りまで、初夏を思わせる陽気が続き、桜は例年より早く開花し、瞬く間に満開を迎えていた。 朝になってもまだ雨が降っていたら、池まで散歩に出掛けよう。あの人に会えるかもしれない。天井を見つめながら、ぼんやりそんなことを考えていた。 桜の咲く季節になると、いつも同じことを思い出す。いや、少し違う。 胸の奥にしまっておいた小箱の蓋が次々と開いて、情景や声や、人の動く様が映像のように流れ出すのを見ている。と言った方が合っている。 夢、或いは現つ。 それは、父も同じなのだろうか。 小学二年生の春休みに此処へ引越して来た。 「花音、おじいちゃん、おばあちゃん、それからお父さんの言うことをよくきくのよ。じゃぁね。行ってらっしゃい」 そう言って見送る母は、いつもと変わらない笑顔で手を振った。それきり、会うことがなくなるなどとは、夢にも思わなかった。知らない処で、父母は離婚をし、知らないうちに、僕は父に連れられ、転校することになっていた。 「お母さんはいつ来るの?」と何度も何度も尋ねた。 祖母は「いつかしらね」と応え、 それから「そのうちにね」になり、 「いつかね」に変わった。 やがて「もう来ないのよ」と言った。 それきり、僕は母のことを尋ねなかった。 新しい学校の門をくぐった。黒板に、いづせかのんさんと、僕の名前が大きく書いてあった。少しの間、父が後ろに立っていたが、出て行った途端「かのーん」と誰が言い、クスクスと笑いが起きた。それまで、名前を笑われたことはなかったから、一人前に立たされて、僕は顔を真っ赤にしていたと思う。花音という名前が恥ずかしいと初めて思った。 雨の翌日、帰ろうとすると靴も傘もなくなっていた。上靴で濡れて帰った。多分、真っ直ぐ家に帰りたくなくて、家を行き過ぎ桜ヶ池まで行った。池の周りを歩いて、一番大きな桜の木の下に座り込んだ。池は桜の花びらで染まっていく。悲しいのか、悔しいのか、淋しいのか、よくわからないけれど、涙がぽろぽろ零れて止まらなかった。濡れたハンカチで何度も涙を拭った。
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