桜花降る池のほとりにて

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花音、花は桜。蕾が膨らむ音、開花の音、満開に咲く音、一面香るように咲き、明るい陽射しの中、風の中、雨の中、月夜の中、鮮やかに散って行く。桜の声が聞こえた静かな夜に生まれた僕に付けられた名前。 「何を泣いているのですか?」 薄い緑色のドレスのような服を着た人が、僕の隣に座って顔を覗き込んだ。袖口が頬を撫でて、涙を拭った。しゃくりあげそうなのを我慢して唇を噛んでいると、その人は、僕の肩に腕を回し、母親が赤ちゃんをあやすように、優しくぽんぽんと腕を叩いた。耳元で、ふわふわした袖がさわさわ聞こえ、佳い香りに包まれている。僕は黙って、池に散る花びらと、丸く落ちて消えていく雨粒を見つめていた。 「物にも、場所にも、人にも名前があります」 その人は、真っ直ぐ池の方を見て言った。 「名前には其々意味があり、想いや願いが込められているのですよ」 「願い?」 僕は思わず大きな声で聞き返した。 「そうです」 その人は、今度は僕を見つめて、ゆっくり話し始めた。 「この池の名前を知っていますか?」 「桜ヶ池」 「そう、桜ヶ池。では、どうして桜ヶ池というのかお話ししましょうね」 「うん」 その人は、灰色の空を見上げてから、僕の冷たい手に冷たい白い手を重ねた。 「それは、阿闍梨様がこの池に入寂されるよりずっと昔、200年も前のことです。この地のお殿様が、それは美しい桜姫という名のお姫様と結婚しました。ある夏の夜、池のほとりで、宴が催され、桜姫は琴を奏でました。たいそう美しい音色にお殿様は上機嫌でした。すると、突然、池が波立って中からとてつもなく大きな牛が現れて、桜姫を攫って池の中に引き摺り込んでしまったのです。怒ったお殿様は大牛を退治しました。それは角が人の背丈より長く、身体は黒い鱗で覆われた滑多羅という怪物だったのです。けれど、美しい桜姫は二度と帰っては来ませんでした」 「死んじゃったの?」 「夏の夜、時折、池の中から琴の音が聞こえて来るそうですよ」 「桜姫は生きてるの?」 「滑多羅に食べらてしまっても、魂は生き続けているのかもしれませんね。お殿様は大変哀しんで、桜姫を偲び、この池を桜ヶ池と呼ぶようになったのです。おしまい」 「ふぅん。そうだったんだ。でも、滑多羅も桜姫の琴が聞きたかったのかもしれないね」 「花音」 その人は、僕の名前を呼ぶと、頭を撫でた。
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