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「優しい子ですね。貴方の名も、花の声、風の声、人の声をその耳で、その心で聞くことの出来る優しい子に育って欲しいと願われたのではありませんか?」
「僕の名前を知っているの?」
その人は、泥だらけのぐしゃぐしゃになった上靴を指差して、にこっと笑った。
「綺麗な良い名です」
そう言われて、僕は少しほっとした。
「男の子が泣いてはいけませんよ。さぁ、雨が止んで来ました。暗くならないうちにお帰りなさい」
「うん」
いつの間にか、濃い灰色の空は明るくなって、雨はあがっていたけれど、桜の花びらは止まずに降っていた。
その人の服に包まれて、濡れた髪は乾いていた。
「気をつけてお帰りなさい」
「はい、ありがとうございました」
その人は、もう一度にこっと笑って手を振った。
名前を笑われたことも、濡れて帰った理由も、その人のことも黙っていた。
「お父さんに似て頑固な子だね」
と、祖母は言った。
そして、前の学校の上靴を持って登校した翌日、朝の会は、そのまま道徳の授業になり、夜になって、和泉晴陽という子が、母親と担任に連れられて、謝りに来た。
晴陽は、一寸悔しそうに「ごめんなさい」と頭を下げ、担任にさせられた握手の手は、桜ヶ池のあの人と同じくらい冷たかった。
それから、晴陽とは卒業まで同じクラスで、一番仲の良い友達になった。ずっとそんな風に、中学も、もしかしたら高校も一緒なのかも。と思っていた。
卒業式の前日、突然思い出したように、
「あの時、お父さんが来たのが羨ましかったんだ」
とボソッと言った。晴陽は母子家庭だったが、サッカーが上手で、中高一貫の私立へ進学することになった。そして、
「ずっと、友達だから」
と、照れ笑いをしながら言った。
出会いの数だけ、別れも訪れる。
桜の季節は好きじゃない。
雨で流れてしまえばいい。
桜の花も。何もかも。
そう思った。
小雨が降っている。
僕は、一番大きな桜の木の下で、折れた木切れにタコ糸を付けて、釣りの真似事をしていた。
「何を釣っているのですか?」
その、聞き覚えのある声にはっとした。
その人は、四年前のあの日と変わらず、薄緑のふわりとした服を着て、長い髪を結んで、僕の隣へ腰を下ろした。ドキドキしている心臓の音が聞こえてしまうのじゃないかと、ぶっきら棒に答えた。
「龍」
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