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「龍?それは大物ですね」
「この桜ヶ池と諏訪湖は、繋がっているんでしょ?お櫃納めのお櫃が、諏訪湖に浮んでたって」
「深い深い所では繋がっているかもしれませんね」
「深い所?桜ヶ池は底なし池なんだよ。知らないの?」
「底なし池ですか」
「あれ?沈めたお櫃は底の底にいっぱいあるのかな?」
「底なし池に底はありませんよ」
「あ、そっか。じゃ、龍は底の底のずっと底にいるのかな?底がなかったら居られないよね」
その人は、クスクスと笑っていた。あの転校したての日に会って以来、一度も会うことはなかった。何か話さなくてはいけない気がして、心臓はずっとドキドキしていた。
「ほら、糸が引いてる。きっと龍ですよ」
「え?」
水面に浮かぶ何枚もの桜の花びらが風に揺れて、糸が動いて見えた。
その時、池の向こうから「かのん」と呼ぶ晴陽の声が聞こえて来た。見ると、紺色の傘を大きく振って、又呼ぶ。
僕は、枝木をその人に手渡した。
「行くね。釣ってね。龍」
「この池で糸を垂れてはいけませんよ」
そう言って、手渡された枝木をそのまま、池に差し出していた。僕は振り向きもせずに、晴陽の元まで走った。
さっきまで僕が居た、向こう側の大きな桜の木の根元にその人は腰を下ろしている。僕が大きく手を振ると、白い衣装が揺れるのが見えた。
「誰に手を振ってる?」
晴陽の顔を見て、もう一度向こうを見ると
そこには、桜の木があるだけだった。
「ん、なんでもない」
枝木を渡した時に触れた手は、やはり酷く冷たかった。僕は片手をポケットに入れて歩いた。
あの時、母に会いたくて、龍を釣っているなどと言ったのかどうかはわからない。ただ、友との別れ、中学生活の始まり。桜が風に散るように、落ち着かない気分と不安を抱えていたことは確かだった。
そして、本当はもっとあの人と話していたかった。もっと話をして、
それから、名前を尋ねたかった。
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