桜花降る池のほとりにて

5/11
前へ
/11ページ
次へ
「龍?それは大物ですね」 「この桜ヶ池と諏訪湖は、繋がっているんでしょ?お櫃納めのお櫃が、諏訪湖に浮んでたって」 「深い深い所では繋がっているかもしれませんね」 「深い所?桜ヶ池は底なし池なんだよ。知らないの?」 「底なし池ですか」 「あれ?沈めたお櫃は底の底にいっぱいあるのかな?」 「底なし池に底はありませんよ」 「あ、そっか。じゃ、龍は底の底のずっと底にいるのかな?底がなかったら居られないよね」 その人は、クスクスと笑っていた。あの転校したての日に会って以来、一度も会うことはなかった。何か話さなくてはいけない気がして、心臓はずっとドキドキしていた。 「ほら、糸が引いてる。きっと龍ですよ」 「え?」 水面に浮かぶ何枚もの桜の花びらが風に揺れて、糸が動いて見えた。 その時、池の向こうから「かのん」と呼ぶ晴陽の声が聞こえて来た。見ると、紺色の傘を大きく振って、又呼ぶ。 僕は、枝木をその人に手渡した。 「行くね。釣ってね。龍」 「この池で糸を垂れてはいけませんよ」 そう言って、手渡された枝木をそのまま、池に差し出していた。僕は振り向きもせずに、晴陽の元まで走った。 さっきまで僕が居た、向こう側の大きな桜の木の根元にその人は腰を下ろしている。僕が大きく手を振ると、白い衣装が揺れるのが見えた。 「誰に手を振ってる?」 晴陽の顔を見て、もう一度向こうを見ると そこには、桜の木があるだけだった。 「ん、なんでもない」 枝木を渡した時に触れた手は、やはり酷く冷たかった。僕は片手をポケットに入れて歩いた。 あの時、母に会いたくて、龍を釣っているなどと言ったのかどうかはわからない。ただ、友との別れ、中学生活の始まり。桜が風に散るように、落ち着かない気分と不安を抱えていたことは確かだった。 そして、本当はもっとあの人と話していたかった。もっと話をして、 それから、名前を尋ねたかった。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加