桜花降る池のほとりにて

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彼女話にすり替えて、後悔しているとも、いないとも答えなかった。後悔しているんだろうか? 開け放した戸口から、湿り気のある冷えた空気が入って来る。暖かい雨もあるのに、 今朝の雨は冷たい。 父の言う通りに、ウインドブレイカーを取りに部屋に戻った。 チェストの上の本立てにある長細い茶封筒に、つい目が留まる。 正月休みに帰省した時、机の上に置いてあった。出瀬花音様とあったが、差出人の記名はなかった。 斜めにピンク色のグラデーションのネクタイと、タイピン。そして、残高200万円の預金通帳と印鑑。花音様 ご成人おめでとうございます。という一文が添えられていた。 勿論、他でもない母からのお祝いだった。 200万は大金だ。毎月こつこつと、4月7日の誕生日と、12月24日のクリスマスには少し多めに入金されているのが記帳からわかる。でも、母がどんな想いでいたのかはわからない。 言うタイミングを逃し、父には黙ったままだったし、成人式にそのネクタイを締めることはなかった。 「もう来ない」と祖母に言われてから、僕は一度も母のことを口にしたことはなかった。子供なりの遠慮だったのか、諦めだったのか。祖父母は甘やかしてくれたし、父も優しかった。母が居ないことを不自由に感じさせないようにしてくれていたのだと思う。ただ、桜の季節を迎える度に、言葉にしない 分、想いは募るのかもしれない。と思うようになった。 お祝いを受け取ったお礼のひと言くらいは言うのが礼儀だろうし、父に黙っているのも気が引けたが、そのくせ、ほったらかしにしてあった。さっき、ついでみたいに言えば良かったか。と少しばかり後悔した。 「一寸、出掛けて来るよぉ」と玄関で叫んで外へ出た。 雨は間断なく降っている。春の香りを洗い流してしまうような冷たい雨だ。花冷え。 桜ガ池までぽつぽつ歩いた。久しぶりに歩くせいか、筋肉痛のせいか、案外遠く感じる。 中学時代、試合でボロ敗けしたことがあった。帰り道、急遽ペアを組んだ彼の不甲斐無さに文句を言うと、父は 「相手を責めるのは容易いけれど、自分の気持ちに余裕があれば、許せることもある」というようなことを言った。その時は、冗談じゃないと思ったが、ずっと後になって、あれは、僕のことではなく、父自身のことだったのかもしれない。と思い当たったことがあった。桜の季節に、父は何を想うのだろう。
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