桜花降る池のほとりにて

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雨の朝、神社へと歩く人は居ない。池頭へとゆっくり歩き、何を祈るでもなく手を合わせてから、池の周囲を見渡して、あの一番大きな桜の木へ向かった。 何度となく訪れている場所。花が散り、葉桜となって、緑の滴る頃も、池の水面が眩しい頃も。気が向けば池のほとりを歩いた。けれど、小六の春に出会って以来、あの人の姿を見かけたことは一度もなかった。 無論、何処の誰かも知らず、元よりそんな人は居なかったのかもしれない。 祖母がよく話してくれた、遠州地方の不思議な話。授業でも取り上げられた桜ヶ池の大蛇伝説。お櫃納めの奇祭。そんな諸々が 幼心に投影して創り出した幻の人なのかもしれない。いや、そんなはずはない。 池の向こう側から、或いは、この桜の木の下で、何度となくそんなことを考えたりした。 雨に煙る池。真ん中辺りに龍が顔を覗かせるのじゃないかしら。と視線を投げるが、間断なく降る雨が真っ直ぐ池に吸い込まれて行くだけだった。すぐ目の前に降る花びらだけが、鮮明に見えている。太い幹から大きく枝が伸びているこの木の下では、雨に濡れずにいられるが、雨宿りでもない、約束をしたわけでもないのに、二十歳にもなって馬鹿だな。朝寝坊のじいちゃんももう朝食を済ませてしまっただろうか。 そう思った時だった。 雨音に混じって、さらさらと衣擦れの音がして、辺りが花の香りに包まれる。その人はずっと前から其処に座っていたように、僕の隣に居た。 ハーフパンツから、細い脚がすらりと伸び、こげ茶色の鼻緒の草履を履いている。 こんな足元だったか。池の方を見ながら視線を上げた。 薄羽蜉蝣の羽のような、薄緑の衣を幾重にも重ねたふわりとした着物。翠の黒髪というのだろう、艶やかな長い髪をきりりと結んだ、白い横顔が目の端に映る。 不確かな記憶を手繰り寄せながら、その人の顔を見た。静かな微笑みをたたえた、綺麗な横顔。 「貴方を、待っていました」 そう言った後で、急に恥ずかしくなった。
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