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「こんにちは、沢木君」
だから、そう声を掛けられた時、僕はそれが夢なんじゃないかと疑いすらした。彼女は僕が女々しく図書室に通い続けていることを知っていたのだろうと思う。彼女の笑みには、そんな悪戯心のようなものがにじみ出ていた。
「一緒に帰らない?」
どうして急に図書室に来なくなったのかと訊こうと思った。だが、彼女の手が伸びると、僕は逆らうことができなくて、その手を握り、図書室を出た。
その日は雨が降っていた。冬の雨はじめじめとした夏の雨とは違い、乾いている。ほぼ無風で、雨はまっすぐ地面に落ち、路面を湿らせる。埃っぽさが初めて渡会さんを見かけた図書室の最奥を思い出させた。
僕らは無言で駅まで歩いた。改札をくぐり、ホームにおりる。このまま無言で終わるかと思った時だった。
「沢木君、これ」
そう言って渡会さんが差し出したのは、きれいにラッピングされたチョコレートだった。
「今日はバレンタインデーだからね」
なんてことないように渡会さんは言った。僕はチョコを受け取り、礼を言った。
アナウンスが響き、電車が滑り込んでくる。
渡会さんは動かない。電車が停車し、ドアがひらいても動こうとしない。さよならと渡会さんは言った。ここでさよならなのだろう。そう、ここで終わりなのだ。
僕は電車に乗り込む。ドアが閉まり、目の前の渡会さんのすがたが歪む。
そうして、電車は走り出した。冬の雨の中を、静かに。
しだいに電車はスピードをあげる。僕らのつながりは、そうして途絶えた。
目をあける。まだ雨は降り続いている。
忘れられない過去の思い出。数か月しかない彼女との繋がり。
ささやきじみた、軽いノイズのような雨音は、彼女の声を思い出させる。
僕は半分だけ残っていた板チョコを冷蔵庫から取り出し、かじった。あの日もらったチョコは、甘いミルクチョコレートだったと記憶している。でも、家に帰り齧った時に感じたのは、苦味だった。
口の中でとけていくチョコの甘みを感じながら、今あのチョコを食べたらどんな味に感じるのだろうかというのを考えつつ、僕は窓越しに雨をながめた。
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