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葉桜を眺めながら、妻は、穏やかな表情を浮かべていた。
枝から、落ちていく花弁の一枚一枚は、火の粉のようにぱらぱらぱらぱら。
向こうに松明が見えているのだろうか。
ゆらゆらの炎を見つめているかのような、彼女の遠い視線。
だから、僕は、聞いてみたんだ。
何を見ているんだいって。
すると、妻は、高校生の頃の話を、僕にしてくれた。
その当時、気になる男の子が三人もいたみたいだった。
年甲斐もなく妬けてしまったけれど、でもその話をする時の彼女の顔は、頬が桜色に染まり、何十歳も若返ったかのようで、とても可愛らしかった。
僕は、そんな妻に、もう一度、恋をしてしまったみたいだ。
ここ数年の妻は、表情も乏しくなってしまった。
元々は、よく笑う明るい性格だったのに、別人のようになってしまった。
しまいには、長年連れ添った夫である僕の事でさえ、誰なのか、わからなくなって。
だから、僕は、妻が話してくれた男の子になりきろうと思った。
そのうちの一人が、今隣にいるとわかったら、きっと喜んでくれるはずだ。
僕の好きな笑顔を見せてくれるだろう。
ある時は、カズマ君。
ある時は、ハヤト君。
ある時は、ケイスケ君。
何度も何度も、妻の話を聞いたから、演じることはたやすかったよ。
ああ、こんなにも、楽しそうな表情を見せてくれる。
大好きな明るい妻が戻ってきてくれた。
今日も2人で手を繋いで歩こうか。
一歩一歩、僕らの足跡に耳をすまそう。
踵からは、鈴の音が弾ける。
例え道が泥だらけでも、そのぬかるみに笑い、隠れた小石がわくわくする発見で、絡みつくいばらの棘も次々としなだれていくだろう。
僕は、誰でもない。
ただただ、世界一の幸せ者。
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