Obscure Cherry

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Obscure Cherry

まず、この後藤という男について私が知っていることといえば、桜の木を見つけては所構わずぶちこんでしまうという癖の持ち主であるということだ。いつもより多く呑んでしまったとある夜、おぼつかない足取りで並木道を歩いていた彼は、通り雨に襲われた。冬と春の境目は寒さを攫っていくような、暖かい雨が降る。天気予報にそっぽを向いて選んだ薄手のシャツが濡れる。今日はお天道様に一本取られたようだ。観念して、一本の桜の木の下に避難した。恐らく、この並木道に植えられた中では若いほうだろう、周りと比べると幾分か背は低いように見えた。雨はまばらで、酔いを覚ますものではなかった。その証拠にと、後藤はいきなり桜の幹に抱きついた。酔っ払いがなんの脈絡もなくする行動だが、後に彼はこの瞬間をこう振り返る。この木に溜まっているエネルギー、花を咲かせる力、植物としてもっと美しい瞬間を迎える為の気概を感じて見たくなったのだと。それまで乾燥していた空気が潤っていく。どんな気温の変化も寄せ付けないと思っていた樹皮が、少し柔らかくなったような気がした。皮の薄い場所を探り当てるように、指を滑らせる。そして、幹から芽吹いた数本の枝の先にある蕾を目線が捉えた時、この男の頭に浮かんだのは、《キスをしろ》という指令だった。春先のメジロの様に襲いかかった。無理矢理に花弁を抉じ開け、うっすらと甘みを含んだ蜜を舌で転がす。これが侘しく心許ない愛撫だと知りながらも、必死に相手を高めようとする。ゆっくりと。周りを囲む雨の助けもあってか、一対一の空間は出来上がっていた。桜の木は後藤が見られない場所でそっと花びらを開く。後藤はそれをめざとく見つける。幾度となく続いたこの応酬によって魔法にかけられた男は、もう全てを受け入れてくれる、と確信した。そこに理性はなかった。既に男の目には、桜の木の幹が均整のとれた美しい身体にしか見えていなかった。
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