第1章

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 桜吹雪舞う坂道を、私は緩やかにくだる。 「もう、満開って感じですね」 私の押す車椅子に乗っている勇太さんが、その秀麗な顔を半分だけ見せて笑った。 思わず、にわかに握っていたブレーキに力が入ってしまう。 車椅子は甲高い音を出し止まる。 「そうですね」  私は笑い返す。笑顔でいれば私の動揺を悟られないと思ったからだ。   看護師である私は、患者の彼に恋をしてしまった。  恋とは本当に、どうしようもないものだと思う。神出鬼没でTPOをわきまえず、一度おちてしまうとなかなか元に戻れない。たとえ病院で働く私でも、この病を治すことはできなかった。   勇太さんが私の担当になってしまったのが運の尽き。彼の笑顔に、やさしさに、不器用さに触れているうちに、気づけばもう手に負えない状況になっていた。   私は心でそっとため息をつくと、再びブレーキを緩めた。院内への出入りとなっているこの桜並木は、その傾斜のせいで少しブレーキを入れながらではないと車椅子が勝手に進んでしまうから注意が必要なのだ。  それも、もうすぐ気にしなくてよくなる。    『あの桜がすべて散るころには、きっと退院できますよ』    彼を受け持つ医者が、この桜並木を指さしながらそう仰っているのを見ていた。  強い風が吹く。桜はさらわれるように舞上がり、やがてしとしとと揺れおちた。また幾つかの花弁が散ったのだろうか。私は通りすぎた風の方を、思いっきり睨んでやった。    「妻ともここの桜、見てみたいです」    期待と楽しみが伝わってくるような声が、私の鼓膜で鋭利な刃に変換され、胸を突き刺す。  本当はまだ婚約段階でありながら、背伸びして妻なんて言葉を使うのが、すごくかわいかった。かわいさが刃の傷を癒し、再び私を突き刺す。   「きっと喜びますね」  たしかにそういうのが好きそうな人だった。綺麗でしなやかで、彼にふさわしい婚約者だった。  搬送されてきた時も、足の手術をした時も、術後も、彼女はずっと彼に付き添っていった。  お似合いだと思っていても、やっぱり惜しい。  どうやったら、彼は、まだ私のそばにいてくれるだろうか。 --そうだ。 私はふと、ハンドルから手を放す。 --また、怪我してくれればいいんじゃないか。 車椅子は、桜吹雪をまといながら、ゆっくりと加速していく。
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