第1章

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 ザザァー  一際強い風が吹いて、ソメイヨシノの花びらが空高く舞い上がる。  世界が、濃くて淡いピンク色に包まれていく。  それは、この世とは思えないほど美しい景色だった。 「ナクシモノ桜か」  ふいにおじいさんがそう呟いた。 「ナクシモノ桜?」  私が聞き返すと、おじいさんは困ったような照れ笑いをした。 「なに、私が子供の頃に聞いた昔話です。突然失ったとても大切なモノは、桜の花になって未来を灯す……とか、なんとか」 「くぃーん」と、サトシがふさふさの尻尾を振る。  私は、ひっそりとそびえ立つ枝垂れ桜を眺めた。  このどこかに、智がいる。  ごとり。私の時間が、ゆっくりと動き出す。  明日から、智のいない未来と向き合おう。  来年の3月19日に、ちゃんと桜吹雪を咲かせられるように。  智に「頑張ったでしょ?」って、胸を張れるように。  降りしきる桜吹雪を見つめ、私は願う。 『この桜吹雪が、智に届きますように』                         (了)
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