桜、サクラ、さくら

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僕は二年前、ひどい高熱を出した。 そのときは、まさか耳が聞こえなくなるなんて思いもしなかったけれど、いきなり、何も聞こえなくなったしまった。 中途失聴という奴だ。 初めはショックで、家に引きこもっていた。 親や友達から、外に出ようと何度も言われ続けてきたけど、僕は一歩も外に出なかった。 音のない世界にいきなり放り込まれて、以前と同じように外を出歩けるわけがない。 家にいても、自分の居場所がないように思えた。 呼び鈴に気づかない、アラーム音がわからない、テレビを見て笑えない、家族と今まで通りに会話することができない。 いかに自分が音に頼ってきたか、よくわかった。 人との会話は、全て筆談だ。 自分の声が聞こえなくて、ちゃんと喋れてるか、小さすぎやしないか、大きすぎやしないかと不安でたまらなく、もう言葉を発する勇気もなかった。 けどそんなとき、“読唇術”というコミュニケーション方法を紹介され、僕は救われた。 家族や友達が訓練に付き合ってくれて、耳が聞こえなくなって数ヶ月経つ頃には、日常会話が口だけでできるようになっていた。 「僕、自分の声がわからなくて、ちゃんと喋れてるかどうかわからないんだ。‥‥‥僕の声、おかしくない?」 そう訊いてみると、彼女は微笑んで、 ーーおかしくない。あなたの声、かっこいいです。 そう言ってくれて、僕はとても嬉しかった。 なんでだろう。 親や親友に言われるよりもずっと嬉しい。 「君の姿も、綺麗だよ。」 そう言うと、彼女は照れ臭そうに笑った。 音のない世界に住む僕と、光のない世界に住む彼女。 お互い、理解しきることのできない世界に住んでいる。 けれど、僕と彼女は、よく似ている存在だ。 ーー毎週日曜日、いつも、この桜の木の下に散歩にくるんです。来週も、ここに来てくれますか?
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