桜、サクラ、さくら

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あの日から、僕は毎週あの桜の木の下を訪れるようになった。 彼女は、必ず僕はくる前にあの場所で待っている。 雨が降っても、風が強くても、僕がいくら早く来ても、彼女は僕より先にあの場所にいる。 桜の木の下で、僕と彼女は、ずっと話していたり、絵を描いたり音楽を聴いたりしている。 話すことに関しては、尽きることがない。 一週間の間に起きたこと、お互いが健常だったときのこと、好きなこと、嫌いなこと……。 病院の看護婦が彼女を迎えにくるまでずっと話しているが、まだまだ話し足りないくらいだ。 僕が会話をするのに疲れたときは、僕は絵を描き、彼女は音楽を聴く。 最近知ったが、彼女は音楽を聴くのが趣味らしい。 クラシック音楽からアニメソングまで、様々なジャンルの曲が彼女のウォークマンに入っている。 イヤホンをして、目を閉じる彼女。 そんな彼女を、僕はスケッチブックに写していく。 絵を描くときは、必ず桜を入れるようにしていた。 花びらが散っても、青く生い茂っても、必ず桜を入れる。 それが、僕が描いたという印だった。 僕が彼女を描きたいと思ったのは、きっと似た者同士だからなんだと思う。 僕と彼女は、これから一生ハンデを背負って生きていかなければならない。 僕は耳が聞こえなくなって家に引きこもったけど、彼女は目が見えなくなっても、桜を見るため外に出る。 見えなくても、感じるために、外に出る。 そんな彼女に、僕は勇気をもらったのだ。 そのとき、 僕は見た。 彼女が涙を流すのを。 僕は描くのをやめ、イヤホンをしている彼女の肩を叩く。 「どうしたの?」 そう訊くと、彼女は首をフルフルと振って、涙を拭った。 ーー違う、違うの……。 何が違うんだ? その理由を聞こうとしたけど、もう時間なのか、看護婦が彼女を迎えに来てしまった。 泣いている彼女を見て驚き、僕の方をギロッと睨んでくる。 「あ、いや、えっと、その……。」 僕がしどろもどろになっているうちに、看護婦は車椅子を押して彼女を病院へ連れていってしまった。 翌週。 僕はとりあえず、彼女に謝ろうと思ってあの場所に来たのだが、珍しく彼女の姿は見えなかった。 彼女が僕より遅いのは初めてだ。 彼女を待つ間、僕は桜を描くことにした。 秋も随分深まり、桜の葉は少ししか残っていない。 僕は、それからずっと待っていたのだが、日が暮れても、彼女は来なかった。
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