桜、サクラ、さくら

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日が暮れてきたので、僕は帰ろうと立ち上がった。 涙を拭い、彼女に最後の別れを告げる。 「いままで、ありがとう……とても楽しかった。」 病室から出ようとしたとき、僕はあることを思い出した。 これは、確認しておかないと。 「あ、そうだ。彼女って、犬飼ってませんでしたよね?」 彼女の両親は、質問の意味を理解していないようだったが、丁寧に答えてくれた。 ーーええ、飼ってなかったわ。それどころか、あの子、動物アレルギーだから、飼えるわけないもの。 それがどうかしたの? そう訊かれたが、 「いえ、なんでもありません。ありがとうございました。」 僕は彼女を一度見て、それから病室を出た。 あの日、彼女が泣いていたのは、飼っていた犬を亡くしたからなんかじゃない。 わかっていたんだ。 自分がもうすぐ死ぬことを。 ずっと車椅子生活で入院していたのは、きっと事故のせいではなく、病気だったからだ。 今の医学の力では、治せないような病気。 僕はショックだった。 彼女がそのことを教えてくれなかったこと。 何も言わずに逝ってしまったこと。 でも、その理由はわかる。 『言ったら多分泣いちゃうから。』 彼女は、最後まで笑っていたかったんだ。 初めて彼女を描いたとき、とても楽しかった。 初めて彼女と次回会う約束をしたとき、すごく感動した。 初めて彼女の名前を聞いたとき、奇跡だと思った。 彼女が『サクラ、サクラ、サクラ……。』と言っていたと知って、嬉しさを覚えた。 死ぬ直前まで、僕のことを考えてくれていたことがわかったから。 僕は、あの桜の木の前に立つ。 桜……。 花言葉は、【わたしを忘れないで】。 そのとき、 「サクラ。」 彼女の声が聞こえた。 久しぶりに認識した、人の声。 まだ頭が混乱しているが、それが彼女の声であるということはわかった。 そして、桜の木の近くにある池の中に、彼女を見つけた。 僕と並んで立っているように見える。 「あなたの姿、かっこいいね。」 いつまでも、僕のことを忘れないで。 「君の声も、綺麗だよ。」 僕も、君を忘れないよ、さくら。 僕と君の名前に誓って。
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