秋田戦争

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幕臣達はついに強硬手段を決意。 12月25日、庄内藩を中心とした5藩が三田の薩摩藩邸を包囲。 賊徒の引き渡しを要求するも、薩摩は拒否。 庄内藩側は攻撃を開始、砲撃等で至る所で延焼。 この焼き討ちにより双方に多くの死者がでた。 子供3人、藩士の妻1人も死亡したと云う。 この報が大阪城に集結していた幕府側に伝わると、激昂した幕府軍は「薩摩討つべし」と、京都に進撃を始める。 鳥羽伏見の開戦へとつながっていく。 江戸を船で脱出した相楽たちは、1月4日京都に入る。 そこで、西郷、岩倉の承認を得て赤報隊を結成、官軍先鋒として江戸へと進軍していく。 しかしその途上、戻ってくるように命じられるが、進軍の意欲は抑えられずそのまま進軍してしまう。 諏訪湖周辺で官軍に攻撃され、諏訪の総督府に出頭。 3月3日、赤報隊の隊長・相楽総三(30歳)以下幹部8人が斬首され、その首は街道にさらされた。 ある日、遺髪を赤坂に届けてくれる人あり。 それから 妻の照は、夫を追うように自刃。
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