船出、そして 角館へ

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大村藩は既に先遣隊、二次隊と、京から江戸、或いは茨城、福島方面へと二百数十名近く出兵していた。 そして、秋田方面での新政府軍苦戦に対して岩倉具視は九州からの援軍派遣を発議する。 大村藩はこれに応え、今回の三次隊が秋田方面への遠征となり三百数十名の大部隊が、「吾往隊」と命名され、編成された。 病を患う父の代わりに志願していた十五歳の浜田謹吾少年には鼓手の大命がくだる。 部隊は一番隊から四番隊で編成。各隊の鼓手は十七歳以下の少年が勤める。 謹吾少年は二番隊鼓手を勤めることになった。 父の浜田弥平衛重義は大村三十七士の一人で、 江戸時代初期、台湾で、当時台湾を占領していたオランダ相手にタイオワン事件を起こした豪傑 浜田弥兵衛の子孫である。 母チカは天正遣欧少年使節、原マルチノを出した波佐見の原氏の出。 大村市には少年使節の顕彰像が建っている。 波佐見は佐賀の有名な伊万里焼の近くだが、波佐見の波佐見焼も400年程の伝統がある。
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