船出、そして 角館へ

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謹吾少年たちも諏訪神社を参拝したり、異人町を散策したりしたようだ。 和華蘭文化と称される独特の文化が栄え、さまざまな人が行きかう異国情緒漂う長崎。 少年たちにとっても、新たなる夜明けの一端が垣間見えたのではないだろうか。 秋田へは、千トン級の外国船2隻で九州諸藩の隊士を何往復もして送っていた。 英国船フィーロン号と米国船コスタリカ号で。 大村隊は島原隊とともに2隻に分乗した。 フィーロン号は8月7日未明、コスタリカ号は8月10日未明、長崎を出港した。 途中で平戸隊を乗せて秋田へと向かった。 大村藩吾往隊、浜田謹吾は船出し、そして前へと進んでいく。 西肥前の3藩は8月15日の夜には秋田に到着した。 (大村藩士326名、平戸藩士約400名、島原藩士約260名) 長崎振遠隊は、それより前の7月26日には久保田城下に入り、各地を転戦していた。 振遠隊の前身は、江戸時代末期に長崎の町の治安を守るために、 長崎奉行により組織された遊撃隊(警備隊)である。 だが鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたことにより長崎奉行は退去。 慶応4年2月15日、九州鎮撫総督 澤宣嘉が下向し、長崎裁判所が置かれ、 その所属となり振遠隊と改称し新政府の部隊となる。 慶応4年4月27日、海援隊の解散命令が出される。 振遠隊は主に長崎の有志、剣客、浪人達で編成されていたが、 長崎に残っていた海援隊士の多くも合流したという。 秋田の遠征には、隊員318名、医官、会計、夫卒などを加え総勢361名が出発したという。
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