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会津赦免の嘆願の拒絶と世良の殺害によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に
変更することとなった。
元々は奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟
(奥羽列藩同盟)であったため、
両藩は盟約書には署名していない(ただし両藩は会庄同盟を結成)。
赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権(北部政権)の確立を目的とした
軍事同盟に変化した。
白石盟約書が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した
太政官建白書も作成された。
奥羽越列藩同盟となった。
奥羽越列藩同盟には、東北の盟主であった仙台藩、米沢藩を始めとする東北の25藩、
越後の6藩が参加しました。
なお、加盟各藩はいずれも当初新政府の奥羽鎮撫総督に従っていた。
赦免嘆願が目的だったものが、新政府の傍若無人に異を唱えたいとはいえ、急速な軍事同盟化で新政府との対決姿勢に転じた事に困惑し苦慮する藩もあったかもしれない。
多くの藩は平時の防衛力をかろうじて保っていた程度だろう。
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