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それに鞄の中には財布やスマートフォンなどが入っているはず。日奈子に限ってそんなことはないと思うが、万が一泥棒呼ばわり、または「勝手に見たでしょ」と変態呼ばわりされるのだけはごめんだ。 おとなしく待つことが賢明な判断だと自分に言い聞かせ、野次馬の群れを見るともなしに見る。 日奈子の姿を探す。が、慌ただしさが増して、見つけることができない。「離れてください!」と隊員の叫びが聞こえる。 俺の方からは、正面の車体しか見えないのでよく分からないが、どうやらストレッチャーに乗せられ、救急車の中へと乗せられたようだ。 ハッチが閉じられ、サイレンが鳴る。 「おっと」 直進してきた救急車は右に曲がり、更に左へと迅速にその車体を進ませていった。 「ごめん」 小走りの足音を耳にし、目を転じる。 「はい」 「ありがと」 鞄を返し、歩き出す。何を見たのか、何を見てしまったのか。日奈子の表情は暗く、無言だった。 救急車を呼ぶ、つまりは凄惨な状況なんだから、そこに自ら突っ込んで衝撃を受けるのは当然、罰が当たったとも言える。 だけど、それを日奈子に面と向かって言えるほど、俺は馬鹿じゃない。そもそも言いたくない。 「飛び降りでしょ?」 「え?」 だから俺は、日奈子の心境を少しでも和らげようと、共有しようと口を開いた。 間接的に首を突っ込んだ形だが、仕方ない。翳りのある日奈子の表情を見ていたくないんだから。 「救急車が一台だけ。ってことは誰かが現場を見て一一九番通報だけしたってこと。誰かは、マンションの住人が妥当かな。それも飛び降りた人の直線上の部屋の人。たぶん、上から落ちてくる人影でも見てしまったんだろ。さっき何人か上見てたし。よって、さっきのは飛び降り。自らの意思か、故意に突き飛ばされたのかは、これから警察が調べるだろうけど、ああいう場合は十中八九──」 「何で冷静なの?」 「えっ?」 遮られて、思わず言葉に詰まったが、答えは決まっている。
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