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芳醇なコーヒーの香りに満たされて、店内を歩き回っていると、何もかもを忘れられた。 そこそこ繁盛していて、余計なことに気を配る余裕がなかった。しかし、それも今日までのこと。 正確には、三十分前までのこと。夏休みまでの期間で、後一日残っているが、最終日までは、母親は許してくれなかった。成績を期待してる一人だから。 明日の天気予報は、今日の空がそのまま長引き、早朝から生憎の雨らしい。 特にいきたい場所もなく、雨の中を、当てもなく歩くほど、俺に行動力はない。つまり家に居るしかない──兄貴と居るしかない。 高校と成績と兄貴。三つが重なって、帰路につく俺の足を重くする。自然と落ちる溜め息が重く、長い。 「──よっ」 肩を落としていた俺の肩を、不意に背後から誰かが叩く。優しく、柔らかな手で。 その手の感触と、鈴のようによく通る涼しげで軽やかな声には、思い当たる人物は一人しかいない。 振り返ると、予想通り、背後には日奈子がいた。 「どうしたの、溜め息なんか吐いちゃって。幸せ逃げるよ。夏休みが終わるの嫌なの?」 「当たらずとも遠からず、って言っとこうかな」 「しっかりしなよ。もう高二なんだから」 「いくつになっても、休みが終わるのは嫌だろ。日曜日がそれを証明してる」 「終わる寂しさも確かにあるけど、また頑張るかって気合い入れれないの?」 「無理。一生来ないでほしいって願ってる」 「ネガティブ思考がっ」 「ポジティブに生きても良いことなんてないからね」 肩を並べて、交わす会話が──いや、彼女の存在が、俺の憂鬱を少し、和らげてくれる。 如月日奈子。小学校時代から親交がある、家も近い、いわゆる幼馴染み。
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