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「あら。桜のつぼみがほころび始めているわ」
母のおっとりとした感嘆を耳にして、汐野(しおの)みちるは振り返った。
母・汐野波留江(はるえ)は、手近な桜の木の枝の、ぷっくりとした薄紅のつぼみとつつましく咲いた白に近い色の花を触れずに愛でていた。
「猫の恋が終わったかと思ったら、すっかり春なのねぇ」
俳句を嗜んでいるせいか、母の言い回しはどこか雅だ。二月末から三月上旬の早春を、さらりと『猫の恋』なんて、なかなか言わないだろう。
(久しぶりに聞くと、日本語って面白いな)
時差ボケで少々ぼんやりする頭で思いながら、みちるは自動販売機のボタンを押す。
母が矢庭に思案顔になって、
「よかったのかしら。お父さんと、えっと……カイル=レナードさん? 急に二人きりにしちゃって」
「おおげさね、お母さん。飲みもの買う間だけじゃない」
みちるは腰を折り、ドリンクの取出口に手を入れた。
この動作も久々だ。向こうーーアメリカでは、治安の問題でとても自動販売機を道端や公園内になんて置けない。
「そりゃ確かに、カイルは日本語が話せないし、お父さんも英語はからっきしだけど」
父のコーヒーの次は、婚約者のカイル=レナードの分だ。彼はアメリカ人にありがちなイメージどおりのコーラ好きで、ビッグサイズを買うことにする。
さわわ、と桜の並木が一斉にさざめいた。
風が吹くと、眼前に広がる池の水面に小波が起こる。
この広大な池は、桜の名所と謳われるこの〈ななひろ自然公園〉のもうひとつの名物で、『神様が棲まう』という伝説を持つ。公園の奥深くには、ささやかだが社(やしろ)もあった。
神の恵みか、池の水はいつも澄みきっていた。もう少し春が進み、ほとりに植えられた桜たちが満開を迎えれば、あたりは幻想的な風景に様変わりするーー幼い頃から何度も目にしたその光景は、みちるにとって、最もうつくしい景色だった。
だからこそ、婚約者をここに連れてきたのだ。
みちるにとっての思い出の場所、その美しさを彼と共有したかった。
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