振られても好きなひと

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 くいくいっと袖を引っ張られる感触に、俊介はふと我に返った。随分昔のことを思い出していたみたいだ。  あのとき結局、ホテル代をどうしたとか、愛美とのその後の距離感とか、まるで記憶にない。きっと今まで通り周囲とは少し距離を置いて、やり過ごしてきたのだろう。  劇団に入っても、劇場の規模も自分の出番も小さなもので、俊介が役者をやっていることを知っている者は少なかった。  それが一度だけ就職情報誌のCMに出たことがあった。もちろんメインではなく、その後ろで様々な職業の衣装で立っている男女二十人のうちのひとりだった。  それでもTVの力というのは大きくて、コンマ何秒みたいな写りでも、何人もの同級生から連絡があった。  連絡をくれた彼らのことも、その中に愛美がいたかも正直覚えていない。それは俊介が薄情だというのではなくて、自分の見ている先しか興味がないからだ。  昔のことを思い出したのは、自分と目の前の男の子の関係が、かつて大好きだった人と自分の関係に似ているからかもしれない。  俊介が初めて好きになり、今も忘れられない唯一の人。離れても、時間が経っても――。  悔しいがやはり自分にとっての好きな人は彼ひとりしかいないと確信したのだから。 「ごめん……悠成、だっけ? ……どうした」  男の子は、座ったままじっと俊介を見つめていた。薄汚れた肌着とオムツ姿で、テーブルに置いたパンを指差している。  テーブルに放り出したまま、俊介が物思いにふけっていたから、食べられなかったのか。小さいくせに、遠慮でもしていたのだろうか。 「悪かったなあ……食べていいんだぞ。オマエにやる」  それでもきょとんとしている男の子。俊介は両手に数種類の菓子パンを持って見せた。 「あんパンに、クリームパン、焼きそばパンは……辛いかな。あとはメロンパン。どれでも好きなのどうぞ」  ぐいっと差し出すと、初めは迷っていた風だが、メロンパンを手に取り、うれしそうにしている。 「これがいいのか」  頷く男の子。俊介は袋を破り、食べやすいように半分出して渡してやった。 「なに、お礼言ってんのか?」  ぺこりとお辞儀をして、メロンパンにかじりついた。その姿が思いの外かわいらしくて、俊介は目を細める。  年は二歳。ほとんど声を発しない。さっきまで年齢も、名前すらよくわからなかった。
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