二、贄桜

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「もー、お姉ちゃんたら。まだ途中だったのに」 「あんた一日中その本読んでたじゃない。今日はそこまでにしておきな」  あんまり根詰めすぎると体に悪いよと言いながら、姉は頬にはりついた毛を掻き上げた。  長い黒髪はターバンみたいに頭に巻き付いたタオルの中にすっぽり収まっている。姉の事だから傷まないよううまく束ね上げているのだろう。  姉は卓袱台の前に座る私の手元から本をひょいと取り上げると、澄ました足取りで横を通って机に向かう。爽やかなボディソープの香りに混ざって、草の汁に似た青っぽい匂いがふわりと鼻を撫でていった。 「今日はったって、明日には返さないといけない本だからさあ」 「その時にお願いしてまた借りてくればいいじゃない」 「次の人がもう予約してあるって言ってたから、多分無理だよ」 「なら、その人の次に予約を入れておいてもらえば」  こちらがどれだけ食い下がっても、姉は涼しい声で即言葉を返してくる。 きっと、片側の耳から入ってきた情報は頭の中で適当に処理されるだけですぐにもう片側の耳から抜け出ていっているからだろう。 「別に今日中に読まなきゃ明日死んじゃうってわけでもないんだから」  奪い取った本を自分の机の上に置いて、姉はこちらをくるりと振り向いた。 傾いだターバンを微調整する十指は青白く、両手首も頼りないくらいほっそりして見える。  多分そう見えるのは、袖口が広い、ふこふこに膨らんだ冬用の花柄パジャマを着ているからだ。  そうでなければ。  ──種のせいか。 「ユリにはまだたっぷり時間があるでしょ」  姉は優しくくふりと微笑むと、机から離れて私の傍に歩み寄る。 そうしてか細い利き手をぺたりと私の頭に置くと、ふわりくしゃくしゃと撫でながら、 「楽しみを後に取っておくっていうのも良いものだよ」  と、何だか変に年寄り臭い事を口にして、姉は部屋を出て扉を閉めた。  かちゃんという音が室内に響いた後で、クッションの上に尻を乗せたまま姉の机の上を見る。  椅子の背が邪魔で見え辛かったが、分厚い資料本は確かにまだそこにどんと置かれたままだ。  机に備え付けの本棚にさえ差し込まれていなければ、鍵付きの引き出しにさえ収まっていない。
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