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無事に塀を超え庭に降りると、見慣れたはずの仕事場は静寂に包まれていて同じ場所のように思えなかった。
特に満月に照らされた桜は妖艶な姿をしている。
「藤二(とうじ)こっち」
蔵の中から彼女は小さな声をかけ、手招きをした。
夜中の蔵など、薄気味悪いと思ったが中へ入ると採光窓から月明かりが差し込み、時折、窓の外を散る桜の花びらが見え幻想的だった。
「誰にも見られず来られたの?」
「へぇ。才華様がそうおっしゃったので」
「二人きりの時に様はやめて……」
幼いころのままの笑顔を向けた。
それでも他人行儀に話すことしかできない。
「昔はそんなんじゃなかったのに」と彼女が頬を膨らませた。
「子供のだったんですよ、あのころの無礼はごかんべんくだせぇ」と、彼女を宥(なだ)めた。
二人で会うのは久しぶりで、ぎこちなくなってしまう。
普段は周りの目もあるので、ある時期を境に、僕は彼女に対して砕けた言葉をつかわなくなった。
だから二人きりでも急に昔のように口調では話せない。
……違う。
本当はこうやって線を引いていないとタガが外れてしてしまいそうになるからだ。
所詮、身分の低い自分が恋い焦がれたところで何ともなりはしない女(ひと)なのに……
幾重にも積り、何度その気持ちを封印しただろう?
隠れて、涙を流している彼女を見つけた日からずっとだ。
『あなたが手に入るのではないか?』
儚い夢を見てはやぶれる。
ずっとその繰り返しだった。
それでも、あなたが僕を瞳に映すたび、懲りずに勘違いしそうになる……
そんな気持ちを何も知らず
あなたは、こんな夜更けに僕を呼び出すのだから
何て残酷な人なのだろう……
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