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深い深い森の奥。近隣の町や村の住人は、絶対に入ってこないこの森の奥には、私たちの住む小屋がある。昔から魔女が出る、という言い伝えのあるこの森には、近隣住民は間違っても足を踏み入らないのだ。
「そろそろ桜の季節だな」
眠たげにそう言ったのは、傍目からはいたいけな少年にしか見えない、私のお師匠様だ。
「はい、そうですね。でも、ここら辺で花見が出来そうな場所はありませんね」
森には魔女が出る、という話はあながち間違いではない。このお師匠様は、見た目こそ少年の格好をしているが、中身は何百年と生きる魔女だ。私はとある事情から、この人の下で魔法を習っている。
大きなあくびをひとつし、お師匠様は小屋の脇にある一本の大きな木に目をやると、再び私のほうを見た。
「あれは桜の木だ」
「以前おっしゃっていましたね。でも、もう何年も花を咲かせていないと」
去年の一番寒かった日に、家の中から木を見つめてぽつりと零していたのを憶えている。春になっても咲かないので、今年は私が咲かせてみようか、などとも言っていた。
「私がやってもいいが、それじゃあつまらん。葵、お前が咲かせてみろ」
お師匠様は「散歩でもしてくる」と言い残すと、森の奥へと消えていってしまった。
花を咲かせる魔法は、前に渡された本の中にも書いてあった。一度も試したことはないが、何事も最初は初めてなのだ。駄目で元々、何事も挑戦しなければ成功はありえない。
小屋の中から本を持ってくると、桜の木の前でそれを開いた。枯れた木を咲かせる魔法の呪文が、そこには記されていた。
「フローレオース」
私は魔法の呪文をつぶやきながら、細い杖を振るった。わかっていたことだったが、何も起きずに、その声は虚しく消えていった。
魔法は呪文だけでは成立しない。その呪文がどういったことを引き起こすのか、頭の中で思い描いて唱えなければならない。それは言葉にするよりよっぽど難しく、「魔法使いとは想像力豊かな人間にしかなれないんだなあ」と私はつくづく思っている。
それから何度か頭の中で、満開の桜を思い描いては呪文を唱えてみたが、桜の木は蕾のひとつさえつけなかった。
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