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「こんにちは。今日から臨時で入った桜井です」
若葉のように萌ゆる艶やかな声によって、意識が現実に引き戻された。
「鬼崎さんは家庭の事情で暫く休むことになったので、僕が越智さんの教習を担当することになりました」
何者かが近づいて来る気配もなく、突然背後から声をかけられた私は緩慢な動作で振り返る。視界の隅で人影をとらえたが、瞼に落ちてきた花弁によって反射的に目を細めた。
春のやわらかい風が二人の間を吹き抜ける。
長い毛先が縦横無尽に翻り、宙を舞った。
(前が見えない)
やがて世界は無風になり、視界が広くなる。
乱れた髪を整えながら徐々に目線をあげた。
刹那、はっと息を呑む。前髪をサイドに撫でつける手がピタリと止まる。
心臓が高鳴る音を確かに聞いた。
「焦らなくても大丈夫だよ。人によって習得速度は違うんだから、ゆっくり着実に前に進もう」
桜井さんはそう言って私の目を見ると、迎え入れるように温かく微笑んだ。
ぱっと花が咲く。そう形容するのが相応しい笑みだった。
魂が吸い込まれそうなほどに儚い、まるで彼岸へと招くように舞う桜。この光景を目にして『美しい』と感じる人間になれるだろうか。
「よろしくね」
また花が咲いた。見たこともないくらいに、華やかに咲き誇っている。
瞬く間に、私の世界が色づき始める。雲間から日が差しこみ始め、二人の頭上が明るんでいく。
桜井さんは虚空を見上げると、
「綺麗ですね」
感嘆するように述べてからまた私の目を見て微笑んだ。
彼の瞳に映る世界に私がいる。
その事実だけで、生きる喜びを取り戻せる気がした。
私は呼吸を落ち着かせてから、
「は、はい」
息継ぎをするように精一杯の返事をした。
嗚呼、私はまた落ちる。
落ち続ける。
命の花を散らせる、その時まで。
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